眼鏡について

”眼鏡=ださい”ですか・・・それが世間一般の眼鏡に対する”イメージ”でしょうか。まあ確かに皆が皆、似合うとは限りませんが・・・


某がそれをかけ始めたのは、中学時代からである。確か・・・(記憶が曖昧だ!!)。しかし中学時代は殆どかけなかった。持っていたがかけなかった。それは、それまでずっとかけていなかったので、”変わる自分”が怖かった。その当時から既に眼鏡への憧憬はあり、是非ともかけたかったのだが、どうも、周りが気になってかけれなかった。別に、全然かけて問題ないのであるが、精神的問題である。かけることによって、まさに前述通り、周辺が気になる。「眼鏡なんてかけちゃって・・・」とか、何かそういわれるのが怖かった・・・だから、今までどうり、旧態依然の状態を保持しておきたかった。今までの状態を維持することによって、周辺から何も言われる原因がなくなるようにしていた。はっきり言って、「周辺を気にしすぎ」と言われれば某は即答する。


YES


と。その当時、中高時代か、そのときは、眼鏡の件に限らず、そもそも天性として”周辺を気にする”性格を持ち合わせていたようで、特に中学は、小学から一気に世界が拡大され、その性格が一気に顕著となり、結局それが原因で人生は中学止まりである。ただその性格、他人からみれば、単なる妄想であり思い込みであり、自意識過剰としか言いようがない。がしかしながら当時はそれを気付けないくらい全くといっていいほど冷静且つ客観的に見る余裕がなく、故にどうしても自己完結的・閉鎖的とならざるを得ず、高校卒業、最後の最後まで周辺と独立した空間で某は生きていた。

って、何か話がいつの間にか主題からずれてる気が・・・戻そう


某に於いて”眼鏡をかける”という行為は、士気向上のために、憧憬対象でもあった行為なだけに大変重要な意義を持っいる。最近では、自己を表現する一手段であり、またこれも1つの装飾品として受け止めている。昔の自分なら、極力”周辺を気にして”あくまでフツーのデザインというか、そういう眼鏡をかけていただろう。出る杭になりたくないがために。とりあえず先のような背心的余裕が出てきたということは、非常に喜ばしいことである。特にそういう変化があったのは、ここに来てからである。結構皆、個性を強く反映させており、自己表現の多様さに気づいたのだ。今まで周辺を気にしていた自分が、かなり損していることを悟った。


今後かけたい若しくはかけるやつの理想としては、滅茶苦茶細い、鋭利な印象を与えるものを前提で、フレームが問題だな。

  1. ”下のみフレーム”。なんかしてみたいですねえ!で、
  2. 所謂黒縁のような”極太フレーム”。一度はしてみたいですねえ!
  3. ”軽量細身”。かけてるか判別不能、とまでは言わないがそれくらい思えるくらいのものですね。


ただ最近或る事象の発生により、コンタクト使用への憧憬が出てきた。久々に”無眼鏡の自分”が新鮮に感じてきた。うむ。住めば都とはよく言ったものだ。

コンタクトレンズ〜O〜

Oさんのありがたい御助言をここにめもっとこう。

ハードはだめ
基本的に寿命が長く、年はもつらしい。そして確かにソフトよりは安いらしい。が、いくら寿命が長くても、ちょっとしたことで絶対に割ってしまう。結局それでソフトよりも高くなってしまい、行動も拘束されるんだそうだ。
ソフト(長寿命)は最高!
Oさん曰く、年までいけるのがいいらしい。彼は管理を十分していて、2年間使えてるそうだ。ソフトのしなやかさにハードの長寿命を兼ね揃えた、非常に優秀なやつである。
ソフト(1日?使い捨て)
結構高くなるそうだ。またすぐ割れる?ああ、乾燥する!だ。自転車こいですぐに乾燥してしまうんだそうだ。管理と衛生上は非常に簡単そうなんだけどなあ・・・なるほど。
BUT

ああ金欠・・・


(或る先輩の記事を読んで)