復帰

国家情報長官(閣僚級)

 「国家情報長官 新設後2ヶ月空席   中央情報局(CIA)をはじめ十五の情報機関を束ねるには、かなりの経験と管理能力が求められるが、この世界の内情を知っている人ほど任務の難しさを認識し、尻込みする事情があるようだ」(読売新聞)
 だそうだ。現実は小説より厳なり(ううっ、苦しい)

自衛軍??防衛軍??どっちでもいいや!!

 おお、第2項全面改正ですか・・・素晴らしい決断です。自衛隊名称変更について「明確に自衛軍と書くべきだ」と、「あまりギラギラするのはよくない」の2分されているそうだ。ギラギラって、何・・・?  

 集団的自衛権、行使可能は当然であり、憲法に明記する必要が無い派と、今後の政権交代の度、異解釈されるため、明記すべきだ派で分かれ、持ち越しだそうだ。うむ。確かにそれは問題だな。政権の数だけ改憲案か・・・。いっそ、どれがいいか、国民投票したら?恐らく、国民側の関心があるかどうか、そちらも問題だが・・・。

前言撤回

 うう、昨日は感情的になりすぎた。というか、主観的過ぎた。昨日の事象を客観的によく考える。すると、先ず以って、あれはそんなに苦悩すべきことだったのか・・・。というか、傍から見ると、単なる、ちょっとした、追求であり、社会一般から見ると、対人に於いて、極ありふれていそうな程度であり、それを問題にする方が間違っている気がする。


 以上の"客観的"的思考は恐らく"昨日の"寡人には、考える余裕はなかったと思われる。やはり睡眠の力は偉い!!!。


 これでもう18日(って、明日ではないか・・・ということは、試験も明日1限目か・・・)は(精神的に)いけそうです(というか、日程場所不明って・・・)。まあ、恐らくあの人たちのことですから、又再実行される可能性が高いが、まあ、もう昨日ほど悩むことは無いのではないかと思われる。寧ろ、楽しみにすらなってきているのは、うう、切り替えが早すぎだろうか・・・
 というか、昨日、かなり向こうは権力濫用なきがします・・・。公正な裁判を望む・・・。
 

 しかし、"昨日"のあの主観的、感情的思考と、"今日"のこの客観的、一般的思考、どっちが間違っていて、こっちが正しい、とか言う次元の問題ではない、と思う。どちらも正しい、ならまだいいと思う。というのも、やはり、"昨日"の寡人から言わせれば、それが本音であり、それ以外に正しいものはなかった。"今日"の寡人から言わせれば、やはりそれが本音であり、同様に帰結する。ただ、どちらかというと、後者の方が、幾分かは寛大になったが・・・。個(超越的思考)が間違っているのでも、集団(多数並列(=社会)的思考)が間違っているのでもなく、相対的であるはずだ。


 ついでに言っておくと、寡人は、意味は間違っているかもしれないが、自称"刹那主義"だと思っている。今現在、その時そのときを最大限に楽しもうとする思考指向だと思っている。否、これが寡人の"刹那主義"である。否々、これから論じるようなもの、全てを、"刹那主義"といおう(反論の余地無しの表現・・・!!!自衛隊が活動するところは、遍く非戦闘地域だ!!!・・・おお!今初めて共感しました!)。寝れば、もう"昨日"のと、"今日"の寡人とは、別人なのだ。大体、昨日のことをすっかり忘れてしまっていること自体、もう昨日の事ではなく、今日しか興味が無い、という表れではないか。試験が危ういのも、これによる所が多い。
 というか、この"刹那主義"、寡人の性格を、まさに端的に表現していて、且つ、漢字もかっこいいので、よく使、いたい。


 また、今までに幾度となく、大小様々な苦悩を経験していく中で、やはり、早期決着をつけ、忘却なりして、正の方向に常に指向するよう、いつの間にか修得してしまっていた。

 でだ。これの最後に、1つだけ、どうしても言って置かねばならん、いや、言っておきたいことがる。それは、寡人"のみ"の問題なら、全く以って、あんなに苦悩することはなかった、ということである。苦悩の「く」文字も覚えることなく、その場で精神的決着をつけ、何も起こらなかったかの如くの状態であった(断定)。大体、もう自分自身については、かなり前から、常時自暴自棄であり、成り行き任せで、妥協し放題で、テキトー且つ、いつ死んでもいい状態である。だから、もし"のみ"なら、全く以って、これを引きずることはなかったのである。"のみ"なら・・・。

個と集団

 うむ、というか、ここに来るまでは、恐らく想像を絶するほど、自他共に認める、かなりの閉鎖的性格であり(否、今もか・・・まあ、まだましになったということで)、やはり、少なからずとも、集団等に属したいと思っていた(この辺は、確か、官房長官との初の出会った頃に書いたものが、過去にあるので、まあ興味があれば探して見てください)。

 集団を重視するか、個人を重視するか・・・・これはかなり重大な問題である。以下から、寡人は「個」優位である(断定)。

 寡人は、あまりに自分、つまり「個」の自由のみに固執しすぎて、、自ら他人を、無意識のうちに排斥していたように思う。これは今もそうだ(と思う)。「閉眼」とか、「腕組」、飲み会時の「正座」(最近、正座が辛くなりつつあります・・・これは時間の問題だな)等など、"客観的"的判断ではこの辺が限界であるが、真の客観的評価では、まだ多くの課題があるのではないか?否、ある。これらを、たまに注意される。それでもなかなか直らないので、見放される・・・。何故ここまでこだわるのか。集団に属した以上、集団の最低限の規則に、従属する義務があるというのに・・・。

 なかなか修正しない理由、それは、つまり、「個」が消滅しそうで、自分が自分でいられなくなるようで、社会に並列化されそうで、だから修正しにくいのである。一旦それを受け入れてしまうと、もう二度となし崩し的に修正し「個」の一部が消滅しそうで、怖いのだ。保守的といわれれば、まさにそれかもしれない。確かに、自己同一性なるものは死守の対象であるが、以上に述べたそれが、果たして"自己同一性"に値するのか・・・。というかそれ以前に、自己同一性って、何だ?使用法は適当なのだろうか・・・となってしまうのだが・・・

 おお!!!猊下!!!専門でしたね。いづれ、御願いしたいです。

でまあ、だからといって、現状維持では、いつかは妥協しないと、所謂、"社会不適格能者(だったような・・・)"である。前途多難である。
 
 さて、もう少し「個」の近く(つまり狭めて)、「集団」により遠いところに(つまり広めて)、線を引こうかな。可及的に・・・。

予定

 陰ながら、20日が楽しみであります。よろしく御願いします。面白くないとは思いますが・・・。あと、もう2人位、個別にそのようにしたいところなんですがね。

感情吐露系です・・・

 うう、どうも最近、感情的な内容ばかりだ・・・。

可及的に

 「可及的に」・・・多用す。この言葉は素晴らしい。日本人の特徴が、まさにこの言葉に表れている。というのは、とりあえず最大限努力してみます。しかし、「不可能で」、「(自分の能力等が)及ばなかった」と、断念できる、と、いえなくもなく、非常に曖昧な表現であるからである。但し、これは漢字のみに着目した、個人的勝手な解釈で、本当の意味は知らない。まあ、だから、「可及的に」と、どこかに記入してあれば、それはあまり自信が無いことを意味する。

戦時につき

 戦時なので、とりあえず記入法については、特段の処置はしてません・・。といいますか、ここまで自分でも膨大であると認めるほど多いので、実際問題として、説明等書いていると、本当に長すぎてしまい、又、こっちも面倒くさ過ぎてしょうがないので、どうも、保留ということで・・・。
 
 あと、いつものブログ巡回は、時間的に無理そうである。

中止命令

どうやら明日の飲み会は抹消されたようだ。じっくり休もう。?いつも休んでいる?うう・・・。

ううぅぅ・・

ううぅぅ・・。今日の昼、何かしていただいた、一切の方へ・・・ありがとうございました!!!・・・。恐縮であります・・・。(←各人のブログのコメントの代表として・・・簡潔であればあるほど、その言葉が際立ち、強調される、と思っている)

 
思う。ああ、本当にすいますいませんでした。全く考慮していなかった(昨日の精神状態では不可能だったかもしれないが)・・・不幸にしてしまったという思いが強い・・・全く以って、遺憾である。うむ、理性なり、冷静になると今度はそっちが痛くなる・・・。ああ、公言してもいい発言と、してはいけないものと、2種類あることに、今更ながら確認したのであった・・・。

が、これからも、「吐き」続けようと思う。でないと、電子媒体ですら継続不可能になってしまう。で、記入時、もう少し気をつけます!!!