erico

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 昨日おとついはこの深夜アニメを見てしみじみと考えたことがあったのでそれを書く。

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 このアニメは原則世で働く女性を応援する旨の新感覚深夜アニメである。しかしながら主人公の設定が30代(女性)であり、まさに働き盛り?の時期であり、実際、数分で完結するアニメ群の間に、実社会で働く女性の意見などが挿入されている。

瞑想癖

 まああれだ。某は瞑想癖がある。その例が、まさにこれだった。
 某はとにかく左右されやすい。特に身近で不可欠なメディアたるテレビに関しては、身近故いつも感動し、考させられている。
 そしてこのアニメを見ていて某はふと思った。

 今子供、学生時代たる10代を、自分なりに一生懸命生きているが、しかしながら実際のところ人生の半分以上は社会に出て働いている時間のほうが長い。そしてこのアニメだと30代を主眼に置いている。そうなると、頑張るべきは30代ひいては社会に出てからではないか???そう、今頑張って生きている10代はあまり人生には意味が無くて、30代ひいては社会に出てからの経験なりが本物なのだろうか・・・10代に生きることと30代に生きるのでは、どっちが大切なのだろうか・・・


 うむ。残念ながら、某、テレビのほんの些細な感動や共感を目の当たりにすると、個人的に深く瞑想に更けることが多々ある。あまりに夢中になると、半日は瞑想している。前述どおり、テレビは某に不可欠である。毎日見ている。そしてそれはただのアニメだったりドラマだったり啓蒙番組だったりするんだが、後者になるに連れて瞑想率が高くなる。
 いずれも決してそんなに人生についてだったりを考えさせるような内容ではない。某が勝手にふとしたシーンを見て、勝手に瞑想しているのである。これは決して非日常ではなく、日常的に行われている、某の癖である。
 それでは以下に某が思考した内容を大体記述する。

10代 VS 30代

 某は今10代を自分なりに一生懸命生きているつもりだ(とは言っても中高時代は完全自閉の死亡モードだったので全く客観的観測が主観から不能だったので、実質は10代=大学生活(20代前前半)である。)。しかし問題提起どおり、人生の大半は社会で働く時間である。今某は20年しか生きていない。しかしながら社会に出てからは20代〜60代と、今の人生の2倍生きなければいけない。しかも0歳〜9歳など、もう記憶など無い。事実上無視していい時代なので、某の生きた感覚は、10年である。故に事実上4倍生きなければならないということになる。勿論1桁代の人生が本当に意味が無いわけがないが、しかしながら理性が未発達で主観による擬似客観的観測が不能なこの時代は、第2の生と言う観点からまだ生まれていないに等しい故、例えるなら、宇宙創世以前を調べること自体が物理的に無意味なように、やはりこれも無意味である。
 さて。今某は10代を自分なりに一生懸命生きているつもりだ。だから、後2〜4倍も生きなければいけないかと思うと、これはゾッとする。今までの人生を振り返ってみると、これは実に内容の濃いものだった。今回顧するだけでもゾッとする。そんな濃い内容だった今までの時間の2〜4倍も生きなければならないのだ。ゾッという生半可な感情は、甘い。しかもだ。今までの人生、これは全て保護籠の中での事象である。そう、未成年という名の単なる社会のペットである。それは可愛く可愛く保護されながら生かされている、単なる社会の寵児である。そこに何の刺激もない。なに不自由が無いはずの世界。そんな理想宮の中ですら、自称濃い人生だったのである。苦労をした。そう、社会で今の2〜4倍もの時間生きると言うことは、これは、想像を絶する。
 社会に出ると、10代では経験しなかったことばかりである。むしろ今までの経験を殆ど否定されることは少なくは無いはずだ。殊によると、全てを全否定される可能すらあるかもしれない。人生は社会で働き始めた時初めて開始されると言っても過言ではない。就活周辺ではその壁が立ちはだかるだろう。ではこの10代、生きてきて意味があったのだろうか・・・ここまで苦労して10年20年生きてきて、結局社会に出るとその経験は全て無意味に化すのか・・・・・・これが問題提起の根幹である。
 勿論今某は社会人ではないので、社会人の感覚など分かるはずが無い。しかしだ。例えばこの瞑想のきっかけであるこのアニメや、例えばよくあるようなテレビドラマだったり、更にはバイトに於ける上司のやり取りなど、これは意外と社会に見知って且つ触れる機会がある。ただ某はそれを他人事として見ている傾向がある。他人事である。これは全く持って不利益な話である。そんなにも近くに社会勉強できる機会があるというのに、それを聞き流すとは、全くもって不利益である。確かに実社会に入ったわけではないので実践は皆無に等しいだろうし、経験から体得できる何かもないだろう。しかし積極的に能動的に自分なりにかかわり、意義を持たせることのよって、将来来るべき社会に備えられる。具体的に言うと、特に最近、テレビドラマ、特に社会人を主人公とする連ドラなどは、それがただのドラマのストーリーの一部シーンだと楽しむのではなく、これは実際に社会では起こりうる事象であり、事前対処を詮索させると言う意味で、大変有意義な媒体であると思うようになった。
 閑話休題、とにかく社会人としての人生のほうが絶対濃い上に長い。想像を絶する苦労が待ち受けていること必至である。うむ。社会人からの経験こそが真の人生だ・・・・・・???疑問提起に戻る。10代と30代の人生、どっちが大切であり、生きるべきか・・・
 結論から言うと、どちらも大切である。それは比較できない独立した事象であり、その大切さのベクトルが違うだけである、と。

 まず10代。私は10代が無意味だとは思わない。思いたくも無いし、実際無意味なわけが無い。確かに一瞬、社会に出ると学生時代の経験なんて役に立たないことを理由に、無意味かとは思った。しかしだ。10代を社会に出るまでの教育期間、社会に出る前の基礎確立期間だとすれば、何ら問題は無い。寧ろこの期間が無ければ社会には出れない。ここで言う10代とは、教育機関に通う学生時代を指している。教育機関・・・教育機関教育機関とは、人間的な側面も含めた学術的なことを教える団体行動原則の場である。籠。まさに籠。世界は教育機関の中だけであり、何もかもを大人がしてくれる、究極の保護施設であり、期間である。これはミニチュア社会であり、まさに社会への基礎教育施設、期間である。しかしながらぶっちゃけこの教育機関・期間を経ずに一気に社会に行くことは、可能である。社会で一気に洗礼を受ければそのうち馴染む。そう考えると、10代は不要なように思える。大体、会社の求めるような専門的なことは、大学出でない限り、会社自身が教育する。そして全会社が共通して求める能力を、公私教育機関が保証を持って行っているだけにすぎない。しかし先も述べたように、結論から言うと、これは必要である。勿論学術的な専門的な教育もだが、その前に人間として、社会に出ることが許されるような人間を育てる期間として、絶対必要である。社会から見ると、その効率化のために10代が存在し、安全な籠を公式に用意しているのだ。してくれているのだ。実際某はこれは良いことだと思う。確かに会社内でも人との交流はできるだろう。しかし小中高大と見れば分かるが、ただ地域が近いとか言うだけのつながりで、全くの赤の大勢の他人と交流し、人間として成長できる。大学などは全く関連が無いランダムに近い状態だ。会社内でもそうなると言えばそうだが、規模や期間が違う上に、いずれは子供達も社会に出て必要な交流をすることを踏まえると、圧倒的に10代の意義が目立ってくる。まあ人との交流だけが全てではないが、しかしそのウェイトは遥かに学術的側面よりも占めているのではないか。そしてそれをも一つの事象としながら、この今彼彼女等の世界で起きている全ての事象の影響を受けて人格形成されるのは、真である。
 次は30代ひいては社会に出た後である。こちらに関しては、全くの未知。しかし述べると、やはりこちらは激動なんだろう。苦難の連続。籠というシェルターなど、存在しない。全てが自身に関与してくる。会社ひいては国のために生きているのか、生きるために会社ひいては国に働いているのか、分からなくなってくる。勿論後者である上に、仕事が人生の全てなどではない。しかしながら仕事は人生には不可避事項だ。食べることが人間の生存条件なら、働くことは第2の生存条件である。しかも第2の生存条件は、かなりの拘束事項が多い。寵児だった時代に比べると、これは想像を絶するのは難くない。特に連続テレビドラマなど見ていると、キャストはすらすら演じて解決しているが、これが実際某だったらと考えただけで寒気がする。そこには、寵児時代には見たことの無い法則が無限に存在し、しかも常に流動している。そしてそれへ対応しないといけないのだ。人格形成できたと思ったら、今度はそれ+αを要求される。応用の連続である。しかしそこで得るものはそれこそもう即日活用でき、有意義だ。しかも社会的能力と同時に人格まで更に成長していくことになる。是が非でも。そしてやはり、この社会に出て成功できなければ、いくら10代が良くても、良い人生だったとは、言えないと思う。つまり、社会進出後如何で、彼彼女の人生の主観的評価は、左右されるはずだ。だからじゃあ10代が悪い人生でも、社会進出後良い人生ができればいいと言うこと。しかしながらそうすると10代は軽視され、比較的に大切ではないということになってしまう・・・確かにそうなるが、前述した通り某は10代が無意味だとは思いたくない。何せ今10代を生きてきて、これだけ楽しんだり苦悩したのだ。それを「別にどうでもいい」等と口が裂けても言いたくない。確かに本番は働くことである。そして働き出して荒波にもまれては成長し、10代とは違う価値観を見出して、もはや別人といえる人になっているかも知れない。その時、「ああ昔は楽しかったね」と回顧して話題にするだけのような単なる記憶としてしか残らないのだろうか。もうそこには10代の法則など無い、社会の法則で動いている籠の外。確かに社会進出のための人財輩出の効率化や基本的人格形成の場として不可欠な10代は、大切である。この期間がないと社会に出れないことは無いが、しかし在ったほうがいい。在るに越したことは無い。だから在る。在るから大切にしなければいけない。でも30代が代表する社会進出は、絶対に在る。誰が何をしようと、在る。だから大切にせざるをえない。どちらも大切だが、ベクトルが違うのでその具合が比較できない。

 以上の観点から両者とも比較できないくらい大切だと分かったが、別の観点からも理解できる。こちらは、前述しているように、10代を無意味だとは思いたくない、この思想がもろに反映した結論である。
 そう、やはり某のこの思想の根本は、10代の有意義性である。寧ろ10代にできて30代にできないことなんて、いくらでもある。実際30代になったことがないので分からず、本当はできちゃうかもしれないが、原則10代と30代は物理的にも精神的にも全く別物だと考える。かなり極端ではあるが、しょうがない。何せ30代は某のインプレッションでしか推論できない世界であり、世間から受ける印象がそのように某を言わせるからだ。閑話休題、10代が10代たらしめているもの、それは先も述べたような、人格や経験の未熟性と籠の存在である。全社に関しては30代にも言えることなんだが、未熟は未熟でも10代のそれは自己満みたいに甘いものなので、超未熟と言うべきか。とにかくその2点くらいだろう。うむ。そこで籠の存在はでかい。10代はこの籠を徹底利用すべきである。して、そして経験を積み人格を磨けるのである。しかもその経験とか言うのは、社会に出てからではできないようなことをしまくればいい。否、出てからはできないと思ったことを存分に楽しめばいい。しかしながらそこは籠である。籠の中での出来事は、実際何をしても唯一無二の10代の経験となって10代の人格形成は行われる。
 またこれは逆に言えば、30代にできて10代にできないことも勿論無限に在るということだ。これは前述からずっと強調していることである。そしてこれらは一つの結論に辿り着く・・・・・・


 全力で今日を生きろ!!!


 この一言に尽きる。既に仮定に『原則10代と30代は物理的にも精神的にも全く別物だと考える』と述べている以上、これはもう前者と後者は形式的に別人として扱え若しくは割り切り、これはつまり人生には独立した2種類若しくは2回の人生が存在するに等しいのであり、しかも両方とも確実に経験することになる。そうとわかれば両方とも良い人生にしたいのは本望。じゃあ両方とも全力を尽くすべきなのは歴然。10代も30代も完全同格化し、比較することが無意味となる。

結論

 全力で今日を生きろ・・・しかしながら「言うは易し、行なうは難し」。その一文には膨大な単語が集約され、一言形式で示唆されている。
 例えば試験があるのなら全力で勉強しろ。例えば恋愛がしたいなら全力で自分を磨け。例えば服飾が欲しいなら全力でバイトしろ。全力で麻雀して、全力で食って、全力で便所を済ませ、全力で寝て・・・明日、否、今すぐ死んでしまっても後悔しない、絶対完璧に徹底的に、滞ることの無いように、何事にも全力を尽くせ。必然的に、したいことは能動的に、来たことは積極的に、少しの待つ時間でも惜しみ、とにかく自発的能動的に且つ積極的に、しかも嫌な事は良い事に思想転換して悉く楽しみ、できることは全て尽くす。立ち止まる暇は無い。そしてその瞬間の出来事は永遠の時間にしてきたことに値する重厚長大にして深遠濃密な出来事になる。それらは一生思い出になり、その経験は彼彼女の一生の宝となり、そこから得たものは糧となり、更なる彼彼女等の価値観を進展飛躍改革更新する。
 しかしながらこれらは決して自分だけに利益を齎す事象ではない。その彼彼女等の人間的更新は確実に周囲に影響を与える。彼彼女の価値観のレベルがかなりのハイレベルになって来ると、もはや本人達の意識無しに周囲に影響を与えだす。これは、効率が良ければ連鎖が起こる。所謂「世界を変える前に自分を変えろ」の通りである。もはや先の段階だと、本人は既に世界を変える条件を満たした人物になっている。
 とまあしかしながら、その一言の意味はあまりに膨大で全てを抽出できない。だからこそこの一言でいいんだ。

日常

 とまあ本当にこんな瞑想迷想が毎日何回も些細なきっかけで様々な分野で繰り広げられているわけです。しかも入学当初・・・と言わず、やはりこれは某の癖ですね。rz
 うむ。にしても恐らくこういう他愛も無いいつもの瞑想を記事化したのは、相当久々か。いつもなら唯一的突発的特殊な対象関連の思想思考を意図的に書いてましたからね。
 因みにこの結論や方法論が正解だとは、断じて思わない。そもそも理論が無茶苦茶ですから。rzまあ一応その時の思想でこう考えただけのことである。とは言ってもいつも全く同じ結論にはなるんですけどね(典型的な馬鹿の習性だ。rz


 ところでこの記事、何時から書いてたっけ・・・確か日付が変わる前には余裕で書き始めたような・・・・・・




 ・・・絶対に更新時刻を見ないようにお願いします。rz