存在価値

下記は、全て結局のところ、負け犬の遠吠え、自己正当化、不努力・苦を経験しないで書いた全く無根拠で矛盾まくりな内容です。それに対して眩暈吐き気や憤怒等、身体的あるいは精神的嫌悪感を感じる場合がございますので、それでも我慢できると自負できる方のみ、お願いします。もし読んで嫌悪感等不快になっても当方では責任は一切負えませんのでよろしくお願いします。

自己否定

 某は以前、こういう台詞を聞いたことがある。

 まわりから道具としてしか見られていないと思った時点でもう、その人は駄目だ

 それは彼の精神論に基づく考えであると思われる。もしかするとそれが普通の思考かもしれない。
 とりあえずこの内容には2つほど負の要素が含まれている。1つは、皆から道具として見られている、と思った、ということである。これは、周辺が悪い場合と、自己に原因がある場合が考えられる。ま当然両方という場合もあるが・・・。しかしいずれにせよこれは比較的被害妄想的な側面もあり、確かに本人にとっては非常に深刻な悩みかもしれないが、所詮は刹那的な意見であり、被害妄想である。そう思ってるだけであるから。
 ではもう1つ。それは句読点以下の言葉である。これは周辺に無関係に独立しており、自己完結してしまっている主張である。こちらは被害妄想とかではなく、今までに生きてきた中で確立した確固たる自己意思に基づく決定であるからだ。いくら他人がどうのこうの言ったところで、まあ彼の思想そのものを覆せたのなら問題ないが、普通はできないのが普通であり、下手すればそのような行為は彼の思想を否定、更には彼そのものの否定にさえ繋がってしまうかもしれない。

 ちょっとずれたか?でまあ兎に角、後者の内容はつまるとことろ、自己否定以外の何物でもない。そのような自己を否定する思想は一般的にはあまり好ましくない忌避事項である。全く正の要素を含まない、非常に危ない、負の事象そのものである。確かによく世間では、「自分は駄目だ、と思ったやつは駄目だ」というのを耳にする。それに、特に未成年など、まだ社会参入期間が短い人たちが言った場合、世間を知り尽くしている中高年は彼等に対してこう言うだろう。「まだ若いくせに何を言うか怒。一体お前は世間の何を知っているんだ。経験も苦労も無いのに知ったような口を利くな」と。まあこれは限定的な話なのでおいといて、兎に角、自己否定したやつは駄目ということ。まあ某はそれを聴く度に(痛っ!)と思うのだが、確かに、一瞬でもそのような考えに達してしまった時点で、そのような見解しかできなくなった時点でもう精神的向上は見込まれない。後は堕ちていくだけである。強い人はそれを自己に原因を見出し、糧とし、改善させ、這い上がっていくだろう。その場合もし成功したのなら、確実に以前よりも強い、確かな自分を自認できるに違いない。もしここで失敗若しくははなから諦めてしまっている人物は、前述どうりに陥るだろう。

 そしてそのある人物は、まさに一瞬でもそのような思想に至ってしまったがために、自己否定と同時に社会否定さえもするようになってしまったようだ。これは、最悪の結末である。今後まだ改善の余地があっただろう長い今からの人生を、自分から見捨てているようなものだ。それで本当にいいのか・・・否、言いわけがない。

自己否定の逆

 話は変わる。うむ。結論から言うと某は自分を”他人の道具”であると割り切っている。そう。先の某人物とは真逆の考えである。周辺のただの道具であると自分に言い聞かせることによって、自己の存在価値を見出しているのだ。逆に言えば、道具として扱われていなければ、某に存在価値はない、と考える。兎に角某は史上唯一無能な人間である。世にはギブ&テイクという言葉があるのだが、前述の理由により某はテイクばかりでギブができない。不可という場合もあるだろうが、殆どは不能なのだ。何もこちらからはできないのに、ただ恩恵を賜るだけ・・・あまりに不均衡すぎる。一体某の存在に何の価値があるというのか、寧ろいないほうがいい、そう考えるわけだ。しかしながら生への欲望が某に自殺をさせてくれない。

 生という事象は、理性を遥かに超えた場所に厳重に保管されていながら、全ての理性に対して影響を及ぼしてくる、絶対的なものだ。少し余談になるが、その点自殺者若しくは未遂者というのは、本当に凄い意思の持ち主であるように思う。彼等の確固たる自殺への意思・行動力はまさに絶賛に値する。某には超えられないあの”壁”を、自らの力で破壊し、厳重な警戒を突破し、そして、自らを消す。それを現実可能にしているのは、理性である。生物は種の保存を唯一の目的に今生存している。人間も生物である以上、それに則って生きている。が、人は本当に凄いというか愚かというか、理性というものを獲得してしまった。否、理性を獲得してしまったものを人と呼ぶのだろう。

唯一無二

 閑話休題、話を戻す。某はだから道具として扱われることによって存在価値を自らに見出しているわけだが、それ故、最前述した彼の発言は、かなり響いた。某を全否定しているのだから。が、確かに一瞬瀕死の打撃を受けたが、体勢を戻した。何故なら、60億人いれば、60億人分の価値観・考え方がある、そう思うからである。そしてそれは某の根本的な思想のよりどころでもある。

 まあ又余談になるが、普通・一般的なる言葉があることは周知の事実である。それらは、今の世界の多数決によって方向付けられた偏った思想の平均したものであるように思う。多数決によるものである以上、当然人数的には最多で、その事象に文句を言う輩は絶対的に少ないはずである。それは認めよう。しかし究極的に言えば、いくら圧倒的多数によって認められたからといって、彼等が全く合同な思想を有しているわけではない。やはり60億人分の価値観思想があるわけだ。しかもそれが共有できないときた。概ねの部分で共有はできても、細部までは不可能である。その根本的原因は、他人の考えを知ることは絶対にできないからである。その自己完結した”自分”という殻の中で、様々な経験し、思考する。その全ての結果が今の自分を形成している。しかも全く同じ経験をしたからといって、決して同じ思考・思想にたどり着くことは稀であろう。何故なら、そもそも生誕する前に神の意思によって全ての人物が異なるように約束されているから。

 で、である。某はそんな60億人に対して、正確に言うと、理性がない若しくは未完成なガキ(具体的には、小学校中学年以下かな。まあ精神レベルによるが)を除いた全人類を無差別に尊敬する。今秋田で働いてるあかの他人も、今東京で犯罪ををしてしまった住所不定無職のあの人も、某は尊敬する。勿論、我が両親も同様に尊敬する。何故か・・・。それは、某には無い経験・価値観・思想を保有しているからである。そしてそれは某から見れば、長所以外の何者でもない。そしてそれに尽きる。まあ中高時代、不良というのは居るもので、やはりそういう人は世間一般的には宜しくない存在として認知される傾向が強い。しかし某は彼等が悪いとは思わなかった。何故なら、彼等は某が経験したことが無い経験をしていたり、想像もできないような価値観を持ち合わせており、寧ろ尊敬対象であった。寧ろ確固たる自己意思に則って活動している、非常に強い人物等であると思う。確かに一体某は彼等の何を知ってそんなことを言ってるんだ、といわれかねない。まああそうかもしれない。でも、事実だと思う。
 また某はどうも他人の運命に無意味に介入したがる、という性質も持ち合わせており、実際、某が持ち合わせていない価値観・長所を他人に見出したとき、即その彼のその長所を最大限発揮するよう助長したくなる。若しくは今見出せなくても必ず保有しているはずだ、という信念の下、あると思い、やはり尊敬する。結果としてこれが無意味な介入に他ならないのだが・・・

 さて、余談の本題。だから、先の彼の思想は某を全否定している、という事象についてだが、某は彼の意見・思想は否定する気は、毛頭ない。まあ確かに彼の方が一般的な思想であるということもあるが、しかしそれ以前にその思想は彼自身のものであるというところが大きい。某は彼の思想を否定する権利を持ち合わせているのだろうか・・・否、あろうはずが無い。これは彼に限ったことではない。先に述べた全対象に対して、某はそのような権限を保有していない。故に今回もいつもの如く彼の意見は彼の意見として、ここは真摯に受け止めた。

自己否定 再び

 余談の本題の余談になるが、某に嫌いな人物は居ない。これは断言しておこう。苦手・無興味な人物は居るが、嫌いな人物は居ない。その人物が嫌い、というのはその存在そのものを否定していることに他ならない。これは、思想否定と同等若しくはより根本的な否定であり、それこそ某が出る幕ではない。仮にもし某が誰かを嫌いになるようなことがあれば、その時点で自分は死ぬべきである。何せ、彼を嫌いになった理由というのが、彼と自分との性格・思想の不一致であり、じゃあ某がそもそもこんな性格・思想じゃなかったらよかったわけで、じゃあ結局某が悪いんジャン。rzてなわけで、全責任を自己に追求し、完結させるからだ。

 もし某が社会に対して不満を持つようなことがあれば、社会に対して不満を言うのではなく、社会に適応できなかった全ての責任を自己に追及し、今この社会に存在しているからそう思うわけで、じゃあ自分が死ねばそもそも不満も無くなって済むわけだ、ってどうしても思考してしまう。

存在価値を見出すための手段

 余談はこの辺にして、話は変わる。
 某はブログやmixi等を通して結構踏み入った内容の事実等を書く性質を持つ。それにはいくつかの要因がある。まずはやはりメモ代わりという要素。これは特に言うことはないだろう。そのまま。常に様々な情報が入ってくる世の中、その全てを常に記憶しておくことは不可能である。また、日々生活している中で思ったことや、行動等を記録することによって、思考活発化や文章力の向上などといった身体的利益や、一体今日は何をしたか等の思い出や回顧材料となる。そして”生きた証”を残すことがでる。
 また内面吐露による精神的安定を保持したりする点においても非常に有用であり、他にも、電網という非常に特殊な衆人環視的環境に於ける恰好の自己主張の場でもあり、精神的共有や安定を図るなどの利益を齎す。

 それに加えて特に某の場合、それに自己の”生存意義”、”生存価値”を見出すために用いている場合がある。それはどういう意味か。
 うむ。まあこの辺は完全に自己満足であり、他人に言わせれば、それがウザイと思われているかもしれないが・・・。某は前述通り、結構込み入った内容の記事を書く、と自分では思っている。それは、是非それをネタにして欲しいからである。「あいつ本当にバカだよね〜」なんて裏で噂された日には、まさに書いた価値があった、つまり自己存在の価値を見出せるわけだ。そしてそうであることを願って今まで書き続けている。ただしこれだけがこれを書き続けている要因ではないことは注意して欲しい。あくまで手段の一部として利用しているだけである。

結論

うむ。結局何が言いたかったかよくわからなくなってきた。その時は原点に戻ろう。うむうむ・・・。うお!単なる吐露だwwwああそうそう、存在価値についてか。だから結局、十人十色、ってことか、多分。(何かテキトー。rz