生か死か、半死か

先週の話になるが、英語Cを受けていて、洋画「フェイス/オフ」を観ることになった。

初めてのフェイス/オフ

私は以前この映画「フェイス/オフ」を見たことがある。その時はただの洋画として、特に注意することなく、まず現実にありえないその”顔を取り替える”という、今思えば非常に奇抜なアイデアを主題にした作品であり、まあ比較的洋画が嫌いな某も、まあ偶然観て、普通に感じた。その当時は全く、うむ。どんどん新しい映画が出るたび、皆素晴らしく斬新なアイデアの作品が出るものだから、どうも「ああまた新作でたな」くらいにしか思わず、そもそも洋画は比較的嫌いなことも相まって、完全に麻痺していた。

フェイス/オフの衝撃

がしかし今回最初に授業を進め、その後これをもう一度見た時、衝撃を受けた。まあ正確に言うと、この映画の、まさに”フェイス/オフ”のシーンのみを予告無しに見せられたが、しかし見た瞬間、この映画の断片であることを理解した。と同時に、そこの授業の今までしてきた内容とが絡み合い、そしてこの映画が一体何を主張していたかと言う本質みたいなのを少し理解できたように思った。まあ、それだけがその映画の主張したいことではないと思うが、しかしそれもあったのは事実だと思う。まあ全部推測だが。
でだ。それと同時、それに気づかずに面白おかしく観ていた、いつもの斬新なアイデア合戦の一作品であると思っていた作品が、実はそんな意味もあったと知って、自分に絶望した。
うむ。やはりその以前までは奇抜なアイデアとしか見えなかったことが、実はよく考えると、非常に倫理的で重大で、且つ重要で、いざ実際自分がそういう状況に立たせられたとき、一体自分は許容できるだろうか・・・

フェイス/オフの前に

授業では最初、まず臓器を取り替えることに抵抗があるかどうかを考えさせた。私はまず絶対問題ないと考える。まあ、ドナーが本当に死んでるかとか、特に脳死とかでは問題になってた。確かに機械がそういったのかもしれないが、しかし人間は生物であり、”未知なる小宇宙”とはよく言ったものである。まさに何が起こるかわからないのが生物。”生き返って”九死に一生を得た人もいるだろう。
ああそうそう。で、何故問題ないか・・・だって生きたいジャン!普通は。

次に、手足を取り替えることについて考えた。これは微妙な問題であると考える。何故なら・・・うむ。これは微妙である。何か漠然と嫌悪感を感じる。できればしたくない。でも日常生活をまた送るためにはしょうがないと考える人は結構いるだろう。

それでは最後に極めつけ、、顔を取り替えることについて・・・。ううううむ。これは明らかに抵抗があり、できるならばしたくない。あまりに創造を絶する要求過ぎて、真剣にすら考えない、否。考えたくない、みたいな、嫌悪感を超越した、無関心みたいな、うやむや視したい自分がいることに気づいて、驚愕した。
そしてこの最後の問題を考えるにあたって、この授業の本質が見えてきたように感じた。

前述を考えさせるにあたって、或る設定が前提となっており、その前提によって、等閑に返答できないようになっていた。その設定と言うのが、まあありきたりではあるが、しかし有効な、「もし自分がそういう状況におかれたらどうか?」(っていうか暗黙裡の約束)

さて、この三つ。下に行くほど拒絶度が増す。何故か。これに関してはなんとな〜く、理解できているのではないだろうか。
私的にいうと、やはりそれの違いは、”視覚的情報への依存”が大部分を占めているように思う。

まず始めの、臓器移植とかに関して。まあこれに関してはあまり嫌がる人は少ないと思う。臓器なんてまず一生お目にかかれないような代物を、誰が溺愛しているだろか。自分の心臓に愛称をつけ、その心臓を大事に大事にする。その他の臓器に関してもだ。まあ、大事にすると言う観点からは、「健康」と言う言葉がある。「(臓器に)やさしい・・・」とかと言うのは良く聴くフレーズである。が、これを服用する彼若しくは彼等の内、一体どれだけの人が本当にその自分の臓器の状況を把握しているのだろうか。正直、どうせ見えないものだから、どうせならもっと健康な新鮮な臓器と交換したい、と思ってるに違いない。完全にパーツ化している。そこまで簡単にいえてしまえるのは、やはり全く視覚的情報がなく、状態を知る術がなく、特に臓器に対して”自分の一部である”という感覚が薄れている殊によると皆無のためではないか。

諺に「知らぬが仏」、「見るは目の毒」、(「百聞は一見にしかず」?)というが、まさにその通りであると言うこと。いくら医者からどうこう言われても、自分が視覚的情報により状態把握してない以上、どうも他人事のように感じてしまい、パーツのような錯覚にとらわれているのだろう。


しかしながら、はっきり言って、手足や顔を失って、死ぬだろうか。うむ。それに対して臓器は、喪失すると生命活動そのものに支障をきたす、死に直結した問題である。しかし後者2項目、手足と顔は、確かに日常生活を送る上では非常に不自由になることは必至である。しかしまず死活問題となることは、根本的に持ち合わせていない。まあ社会に出て自立して生きようと思うと、それは死活問題ではある。自然界に於いても、確かに手足がないと餌が食えず、死ぬ。が、確かにそれらは、長く生きていくためには非常に死活問題であるが、生物学的?にいうと、なくても生きれるはずだ。っていうか生きれる。刹那的であろうとなかろうとそこにただ、しかし確実に存在していると言う意味に於いての「生きる」には支障はないはずである。

だから、手足に関して取り替えるのに抵抗があるかということは、どうもいつもその手を見ていて、その手が自分の一部であると認識しているからこそ、ではその手を失ったから、他人の手をつけるよ、何て言われたら、えっ!?他人の!!!そして漠然とした嫌悪感、自分のものでなく、他人のものであり、そして取り替えたら最後、その手足は永遠に他人のものをつけていなければならないという不安。完全にI異物化されている。
がしかし、まあしょうがないか、と言うことで生活に支障がないように諦める人は多いだろう。何せ、手足は比較的感覚的慣れから来る取り換えへの不安が強いように見えるし、まあ皆大体同じような手足の形であるから。


ではではではでは、顔の取替えはどうか・・・
結論から言うとそれは、自分の外見、つまり視覚的データから齎された情報が変わるというのは、特に顔に於いては著しく、自分が自分である理由、自己同一性を喪失する可能性がある、ということだ。つまり、自分を捨てて生きれるか、と言うことであるように思った。うむ。自分を捨ててまでして生きようとする意味とは・・・っていうか。自分だから生きようとするのであって、他人のために何故生きないといけないのか。人間も一生物であり、特に自己生存への執念は強い?人間である。多分。
あああああ。頭がこんがらがってきた。確かに、顔をそこまで重視したら、そういう意味不明なことになってしまったが、実際、いくら顔を変えたところで、それはあくまで外見が変わっただけで、他は何も変わってない。自分は自分である。じゃあ別にいいじゃん。


にしても、何故ここまで視覚的情報への依存、特に顔という一身体の部品がここまででかいか・・・。
やはり、自分自分と認識できるのは、視覚的情報以外ない、といっても過言ではない。されにその特徴が凝縮されてるのが、顔なんだろう。
手足が無作為に放置されていて、その中に自分の手足も放置されているとしよう。さて、あなたは自分の手足を発見できることができるだろうか・・・
まあ、まず無理だろうと思う。何せ、みんな同じような形してるからね。確かに細かく言えば、肉つき、肌の潤い、毛の濃さや大きさ、匂いなど、他の感覚を動員する情報も多々ある。でも、まあ感覚的に、判別するのは難しいと理解できると思う。某はそう思う。
それに対して、自分の顔も含め、そこらへんに顔が無作為に放置されていたとしよう。恐らく一瞬にして自分の顔を判断できると思う。否、判断できる可能性が物凄く高い。手足よりはよっぽど判別率が高いのは容易に想像付く。臓器が放置されていたところで、まず、判別できる人はいない!!!

フェイス/オフ

ふう。とにかく以上の問題は、もし自分がかなり致命傷な状態と言う極限的状態の時であり、(意思があるかどうか別にして)白黒判断しなければいけない、そういう状況であるのが設定である。
そこで映画に戻ると、その映画に於いては、既に主人公はもうは自力で判断できない致命的な状態であり、しょうがなく日常を取り戻すために、医師等他者が本人の意思に無関係に緊急措置として、顔を取り替えていた。そして目が覚めた主人公は、発狂したのだ。何とかこの今の不動の、覆しようもない事実に怒り泣き叫んでいる。
何せ、自分の目の前にいるのは、自分ではないのだから・・・
で、もし自分が映画どうりに状況になってしまったら、多分私は、まさに主人公と全く同じ行動をとったに違いない。言った後にその発言が過言かどうか判断できない。先ほども述べたが、鏡に見えるのは、自分を唯一自分と判断させることができた”顔”が、違うのだ。これは衝撃以外の何ものでもない。死んだも同然であるように思う。がしかし、そんな危機的状況から脱却するためにはどうしてもこの方法しかなかったのだから、しょうがない(そういう設定だから)。イヤイヤ認めざるを得ない。認めない余地がない。後はいかにこの他人の顔をした自分を許容するか、妥協するか、諦めるか、自分の顔だと自分自身を納得させ、思い込ませるかに尽きる。
この問題を解決する方法として、やはり生前に予め是非を契約しておかないと、まあ運悪ければ旧態・依然への復帰処置として手術を施されるに違いない。まあ、自らそういう状況になったら変えても言いと言う人なら問題ないが、意思も聴かないで勝手に変えられて、後で絶望するような人々は必ず出てくるだろう。そういう人たちに対する精神的な支援をする必要があるわけか。


この問題は、正直今冷静に考えれば考えるほど答えにくくなる。どっちが最善なのか自分でもわからないのだ。もし拒否して、非常に醜くなった外見でも確かに日常生活は至って、多少は難しくなるかもしれないが、あまり変わらないと思う。あとは自分の精神的問題と、世間的な偏見?のようなものに耐えるだけ?か。
そしてもう1つ、承諾して、まさに映画どおり、顔面を変えた若しくは変えられた場合、うお、自分の精神的問題と、世間的な偏見?のようなものに耐えるだけ?って、さっきと同じか。でも前者の方が比較的世間的偏見が強く、後者は精神的問題が強いような気がする。
今回改めてこの映画を観て、今までの映画、そしてこれから出るであろう映画に対する見方考え方と言うものが180度変わったように思・・・たように見せかけて、もう180度曲がっているのは多分間違いないが、その映画は一体どんなことを主張しているのか、どんな意味があるのか、ということも考えながら、これからは映画を観ようと思った。その点においても、今回のように、やはりまずその映画の設定を自身の設定に置き換えてみると、非常に理解しやすくなる。

視覚情報に依存してない場合

うお!視覚情報に依存しているといったが、しかし世には先天的、後天的問わず、盲目弱視の人が五万といる。その人たちは視覚情報に頼りたくても頼れんない。特に後天的な人たちは不自由と思うだろう。しかし先天的な人たちは、そもそも自分を不自由だとは思ってない、はずだ。不自由と言う言葉は、或る意味非常に偏見的な言葉なのかもしれないorz
で、そこで疑問なのが、ではそんな人達は、もし顔面取替え必至状況になった場合、どちらの選択肢を選ぶのだろうか、と思った。思うだけね。

フェイス/オフより攻殻機動隊

うむ。っていうかそもそも、移植だの他人の手をもらうだの、可及的にしたくないですねえ。ここは無機物たる義手・義体等にすれば全て問題ない!!!この授業にも、人のは嫌だが義手とか、そういった類のものなら許容可能、とか言ってた人がいた。某も含めて。
無機質。それは、生命とは無縁の、単なる物質(多分)。それが自己同一性を持つことは、まずない。それでだろうか。やはりどうも無機質は落ち着く。人の腕とか、動物の臓器とか、何か自分が自分でいられなくなるような、自己同一性を侵されるような、保守的な部分から来る漠然とした不安が、ない。

ああでも最近、自分の細胞を増殖させて、育成させて、スペア?のようなのを温存しておく技術ができるだかできないだかを聴いたような。うむ。正直、それが”自分の”スペアという前提で何となく許容しそうである。間違えて他人のを使ったとか、そんな医療ミスとかあった日には、ww知らぬが仏かorz
っていうか、やはりどうも”生体部品”というその言葉にどうも違和感と言うか、嫌悪感を感じる。生体・・・


疲れたのでこの辺でやめとこorz

教育機動隊

ああそうそう。この前2度もNHKで「サイボーグ技術」云々という番組があり、一回目は再放送期待して優先順位を下げてみなかったが、期待通り再放送があり、ビデオに録画して、後で見ようかなと思い、撮って別のことしてた、多分。
で最近そのビデオを見ようと再生すると・・・

!!!!!!!orz 総合でなくて教育が撮れてた顔面蒼白

OFF LIFE

わけがわかりません。すいません。書いてる本人が一番理解できてませんorz。あくまで妄想なので。特に自己同一性のところ、マジで意味未知なのに使ってみるorz。
早期off lifeを希望。